花の写真素材屋MOMOの時事逓信屋PAGE7

時事逓信屋


記事 重量税 方言 AIで裁く 生きる(認知症) ファッション(流行) 自由 クリスマスローズ スマートフォン 3.8qで世界一周 上京

2022年12月18日(ももやん) 
photo→花の写真素材屋 素材

重量税

 1971年に施行された自動車に対して課税される国税で、これは当時の日本列島改造論として全国に自動車専用道路の建設が始まった時代と並行して、公共の道路を走行する車両の影響を受けて、道路劣化に対する保全を確保する為の、財源を確保する為に考案された税である。その内訳は公共の道路を走行するに当たり、車両重量が重いほど道路の劣化・損傷を招く為、車両重量が重く成る程、課税額が高くなる特定財源であった。そして今日まで課税額の区分化など細かく分かれている。ちなみに全ての車両が課税される訳ではなく、特殊車両などは自動車税を含む非課税である。
この重量税は特定財源としてスタートしたが、現在では一般財源として扱われ、車両に対して自動車税のほかに重量税を課税する二重課税の問題や、本来、この税の目的である重量に課税されるはずが、永年経過した車両に対し、課税額が高くなるという矛盾した税でもある。つまり永年経過した車両が年々重くなると言う理解になる。そうではないとしたら、せめて税の名称を変えるべきだと思う。そして重量税の用途は二重課税の一般財源化で、教育や医療などに本税は使われる事も本来の主旨に反している。

自動車に取り巻く多岐に渡る税は、その昔、自家用車は贅沢品として扱われていて、購入者は課税を承知の上で購入するため、税を徴収する側も抵抗感も違和感もない。ご存じの通り自動車を取得した際、自動車取得税、自動車税、重量税、揮発油税、自賠責保険、印紙税、消費税など国としては税徴収の宝の山である。
しかし今日では自動車は贅沢品ではない上、生活の足となっている。また地方では家族一人一台も不思議ではないのが現状で、さらにスーパー、コンビニなど近くにない過疎地では移動販売等に使用する車両は日常生活と一体化している。そうした状況では一つの生活必需品に対して税の掛けすぎは過言ではない。
その様な訳で車両の税の一部である自動車重量税を今回取り上げているが、一度施行された税はなかなか無くならないし、新たに法の解釈を精査して、税徴収の科目変更や新設、増税等を試みているのが現状である。
国家として、自動車に対しては貴重な財源ではあるが、そもそも自動車等を運転できる迄のプロセスとして、国内の少子高齢化や免許取得人口の減少、交通アクセスの利便性の向上などで、車の需要の減少が考えられるとすると、将来に於ける安定財源とは言えない可能性が有る。それらを見込んだ上で、次の税の一手を検討しているかも知れない。
具体的に自動車のIT化やEV化によって、将来、自動車の原動力は内燃機関(エンジン)から完全モーター化に変わり、それにより揮発油税が無くなり、更に将来は道路走行ではなく空中飛行に変わると重量税も当然無くなる。しかしそれでも、代わる税の代替え財源として、車両電気税や車両特別飛行空域税など苦肉の策として恐らく検討するだろう。
たばこ税や酒税とは違い、車はその昔と比べ用途が社会生活の一体化になっている以上、税の軽減をするべきであるが、しかし総合的に考察すると自動車の課税は時と場合によって、いくらでも解釈される税金であることが垣間見えてくる。


補足

 ご存じの通り車を購入すると諸経費や税金がかかる。改めてその内訳は、現金一括で買わなければ毎月のローン代、所得税、自宅に車庫が無ければ車庫代、燃料代、毎年の自動車税、車検代(自賠責含む)、消耗品(タイヤ・オイル・ブレーキパット・その他消耗部品)代,、任意保険代と毎月の車にかかるお金の負担はけして安くはない。其の上で例えばサラリーマンの若い人が、毎月の給料で車を維持するのは上記の通り大変であり、彼女のデート代どころではない。どうしても必要ならばレンタカーを借りた方が安く済むのだ。特に人口が最も多い大都市圏では、持ち家でも車庫一台スペースが最も多い。親が一台、自分が一台など夢のまたの夢、更に実家を出て一人住まいしても家賃や衣食住、交際費等など精一杯で車どころではないのが現実だ。そうした中、街を走る乗用車を見ると確かに若い人の運転はその昔と違い少なくなった。
1970年代辺りから、18才になったら競い合うかのように普通免許を取得して、中古車でもいいから直ぐに購入して乗り回した時代であった。本来、若い人も車を乗りたいはずなのに購入と維持の両面で、経済的収入環境が整っていないのが現状である。
それと、免許取得費用が昔から相変わらず高額なのも取得者の負担が強いられている。


2023年1月3日(ももやん) photo→花の写真素材屋 素材

方言

 新春にお笑い番組を満喫して、本年も笑って過ごせる年であるよう願いたい今日この頃。そのお笑い芸人さんの喋り方を聞いてひそかにつぶやいてみた。

日本国内の言葉の発音(方言)を聞いてみると全国津々浦々違いがあり、大まかに本土方言(東日本、西日本)や琉球方言と大きく分かれている。狭い国土の中で言葉の発音(アクセント)が多様に存在するのは珍しいかも知れない。そうした中で、国内の標準語は日本の首都である東京の方言が用いられ、主にニュースメディア等では東京標準語が使用されている。諸外国でも州や地域によって発音(アクセント)が違うように、何処の国でも国内の方言の違いがあるのは、特に珍しい事では無いかも知れない。
そこで、日本国内の方言を考えると、主に一般的に聞く方言は、西から沖縄弁(琉球弁)、九州弁、広島弁、関西弁、東京弁、東北弁、北海道弁などがあげられる。それらの方言は、其々の地域で住む人同士は方言をお互い使用しているが、その地域で標準語(東京弁)で相手に話すと、ある程度標準語に合わせたりしてくれる。でも、それは個人的にはそのまま普段の言葉で喋られた方が自然観がある様に思える。日本国内のそれぞれの方言は各地方の風土と文化、そして、そこでしかない言葉の味とが絡み合って、地方の風土感を垣間見える事ができる。

例えば、九州地方に足を運んで、その地方の言葉で人と話す事ができれば、より一層、人同士の近親感を抱く気がする。
良くテレビのお笑い番組で、地方の言葉をネタにしている芸人さんは別として、大多数は関西弁の芸人さんと、東京弁の芸人さんが多く見られる反面、ネタ以外に九州弁・東北弁などを話す芸人さんはあまり見受けられない。では、それは何故なのか?
特に関西地方出身の芸人さんは芸以外でも普通にメディア等で方言を喋る、そう、関西の芸人さんは普通に方言を喋り、ネタも勿論方言である。それとは別に、関西以外の出身の芸人さんは、主に東京弁(標準語)で喋り、ネタ以外も標準語。両者は当たり前の様に思えるが、そこには大きな違いがある。それは普段の言葉(関西弁)で芸をする。そして普段の言葉以外(標準語)で芸をするの違いだ。

私は特定の方言を肯定も否定もしていないが、ここで疑問を列記したい。
一般社会で特に気になるのは、都会に於いて東北地方や九州地方、沖縄地方の言葉を普段話す人が、敢えて言葉を躊躇して話さないのは何か理由が有るのだろうか。また関西の人は首都圏でも普通に関西弁を話す。この違いは、前者は喋ると何か不都合な問題が生じるのであろうか。それは標準語で喋らなければならない理由が何処かにあるのだろうか。更に会社の接待や会議、プレゼンなど必ずしも標準語でなければならないのであろうか。故郷に帰省すると地元の方言に戻るのは普通であるが、そこから標準語地域に戻ると標準語を喋るのは何故だろうか。

このように、だろうか、だろうかを沢山書いたが、結論として標準語(東京弁)と関西弁以外は大都会の場所やメディア等では敬遠されているかも知れない。その理由は恐らく相手に地方の方言で喋っると言葉の理解ができない可能性がある為に、標準語を推奨していると推測される。それでも相手に分かりやすく普段のアクセントで話せば良いだけだ。

しかしこれらは建前と本音の問題だけど、何時の時代も地方の言葉を公に話すと相手が違和感を持つとすれば、それが問題である。方言を偏見や蔑視、差別意識など心の底で思っている人がいるとしたら、公の場(社会環境)では標準語で喋らなければならない言葉の環境が、何も変わらず続くかも知れない。


2023年1月6日(ももやん)

AIで裁く

 被告人が罪状認否を認めても認めなくても、また完全黙秘しても全ての状況判断や証拠類、供述などを審理して最終的に無罪か有罪かの審理が下され、その罪状の有無を言い渡す判決の宣告は裁判官である。人が人を裁くのは人権が絡み、非常に難しい判断を裁判員や裁判官は強いられる。勿論、裁判員と裁判官は個人的感情を入れると裁判に於ける公平なジャッジが下されない。
このように人を裁くと言う事は、人の人権を左右させる大変重い重要な事で、裁判に携わる人は先入観を持たず、公正中立や倫理観が大変重要なってくる。しかし裁判官とはいえ人の子、複数の裁判官が審理すれば、それぞれ意見が別れるのも当然と言える。

そこで罪状を完全否認している被告人を、有罪や無罪または刑を必ず決めなければならないが、本当の真実を知っているのは被告人本人のみである。仮に被告人が無罪を主張して実際は犯行を行っている場合、被告人は有罪を言い渡されると落胆や量刑を気にするだろう。その逆で無罪を主張して実際には犯行を行っていない場合に有罪を言い渡された時、誤審だ、自分はやっていないと激しく動揺するだろう。それら二者に対し裁判官が判決の宣告すると、前者の例は被告人に対して問題ないが、問題は後者の方である。

本人が無罪を主張しておきながら有罪と決めた場合の判断は裁判官であり、そこまでの過程はあらゆる状況を精査、審理した結果で、それが裁判官の仕事である事は間違いない。また、上告によって下級裁判から上級裁判に至るまで裁判官の判断が変わり審理のやり直しもある。それだけに人を裁くには慎重にならなければならない裁判であるが、先の例の無実を主張している被告人を有罪にして、のちに無罪となった場合、検察官が上告しなければ冤罪と言う結果になる。しかしこうした判例も裁判官が審理した結果である。でも実際の真実は被告人本人でしか分からないし、裁く側の裁判官を含め、本当の真実を知る事は誰も知る事はできない。

以上の様に前置きが長くなったが、これらの事例や判例をAIが裁判官となり、人を裁いたらどうなるのだろう。被告人の意見陳述、検察官の論告、弁護士の弁論など全てAIが聞き入れて、それを審理し、判決を出すなど可能なのだろうか考えてみた。
例えば刑事事件で物的証拠や被疑者の供述が得られず、状況証拠のみで起訴した場合、裁判で判決の宣告をする時に最終的な判断として、疑わしきは罰せずと推定無罪の判断をして裁判官が無罪を言い渡した場合と、AIは同じ判断ができるのだろうか?
仮にAIにあらゆる条件と疑わしきは罰せずのアルゴリズムを構築してインプットし、判断を促した場合は、二者択一の1と0しかない”真”つまり疑わしきは罰せずの無罪を選択するはずだ。つまり人間の知恵をAIのプログラムにインプットしているだけなので同じ判断になる。
そこで、人の人権(人権とは何かをインプットさせおく)は最優先とし、
注1疑わしきは最後まで有罪か無罪かを判断しろと、AIに命令したらどのような結果を導くだろうか?この結果は、たぶんAIは”真”なのか”偽”なのか暴走すると見ている。それは0か1を決められないからだ。

しかし、人はその0か1どちらかを決めている。そうしないと人も永遠と真実を追い続けることになる。それを回避するために、極論の疑わしきは罰せずと大義名分とし、人権を最優先にして二者択一で無罪を決める事もできるが、その反面、有罪なのに無罪にする可能性もある。そこでAI
注1と人が裁くのを天秤にかけたら、どちらが重く傾くか、または釣り合うのだろうか。その天秤には人の人権と命がかかっている。


2023年1月16日(ももやん) photo→花の写真素材屋 素材

生きる(認知症)

 アルツハイマー型認知症を題材した俳優の渡辺謙氏が主演した明日の記憶という映画がある。この映画は大手の広告代理店に勤める佐伯雅行(渡辺謙)が、些細な記憶違いが続き、取引先に於いて支障をきたす事が続いた。その為、医師の診断を受けた結果、若年性アルツハイマーである事が分かった。その後、社内の配置転嫁を余儀なくされ退職に至る。妻、佐伯枝実子(樋口可南子氏)と自宅療養する傍ら、趣味の陶芸や自分で療養施設を探す行動にでるが、徐々に症状が重くなって行く。現役の営業マンがアルツハイマー病を抱え、仕事や夫婦間の葛藤を描いた物語である。これは、働き盛りの50代の中堅サラリーマンが突然の病によって職を失い自ら施設に入り、生涯を迎えると言う痛ましい映画であるが、しかしこれは物語でもなく現実にあり得る事である。
ここでは認知症の原因等は敢えて書き記さないが、認知症と向き合うとは何かを考えていきたい。映画では若年性の認知症を取り上げているけど、圧倒的に高齢者が多い。その詳細は症状の軽度から重度まで多岐に亘り様々で、同じ言葉や行動を繰り返したり、直後の記憶が無くなる事も屡々見受けられる。この様な症状を抱える人を一人にさせる事はできない為、施設や第三者の介護、または家族の協力がなければ認知症の人を守れないのだ。しかし介護を続けると言う事は、生活力がある家庭は介護施設などでに入所させる事はできるが、その反面、事情があって家族内で認知症の人を介護するのは日常の生活面で精神的な負担が強いられる。

例えば、家族内で認知症の人が同じ言葉や行動を繰り返し、それに対応して身内が叱責した場合、認知症の本人は普通に話しているので、何故叱責されるか理解できない。だから言われた相手に対して怒るけれど、対応した相手も更にその言葉で叱責する。これは相互の言葉の悪循環の繰り返しだが、そもそも認知症は脳の病気である。徘徊にしても、異常行動にしても、言葉の言動にしても脳の中枢神経の指令が正確に行き届かない結果であり、家族や介護者がいないと、どんな状況でも行動や安全を確保できない症状である。つまり、その人の言葉のやり取りに対して、まともに怒る事自体、してはならない事である。

その様な環境や状況は、命がある限り介護をする事や介護される事は、対岸の火事や他山の石ではない、それは明日は我が身かも知れないと言う事で、介護する人も介護される側になる事もあり得るのだ。また、認知症と限らず要介護で寝たきりの人をあやめる記事を目にするが、そこ迄至った現状を社会が直視して、改めて再発防止に努め、環境整備を整えなければならない。
人は生まれたからには必ず死を迎える。病気であれ、事故であれ、老衰であれ、死の迎えは様々である。家族や人に迷惑をかけずにあっさりと死にたいと思っていても、思い通りに行かないのはこの世の現実だ。
若い頃は、自分の健康など考えた事はなかった。しかし年を重ねるに連れ、明日は生きているのか、朝、目を覚ますのかと、ふと考える事がある。それは死を恐れないなど綺麗事は嘘で、一縷の怖さがある。でも、いずれその日は誰でも必ずやって来る。
それまでは人として生きる限り、家族や周りの人達の協力で、認知症や病を克服していかなければならない。


2023年2月10日(ももやん)

ファッション(流行)

 どの時代でも流行は付き物で、例えば服装や髪型を考えてみると、昔も今も若い人が中心にその時代に添った服装をしている。それらの流れの発端はメディアやファッションショーなので、モデル、タレント等が着こなす姿を観て参考にする場合が多い。また、髪型も同じ事が言える。
例えば、ある時代で服装や髪型が流行っている最中に、街中で一般の人が一人だけ流行りではない服装や髪型をしていた場合、誰もがその人の恰好を見て参考にする人は少ない、若しくはほぼいない。それはそうかも知れない、何処の馬の骨か分からない人の姿を参考にしない。流行初期に有名人かファッションショーの姿を真似をすれば、決して恥ずかしくはないと自負している人達が一人、二人となり、そしてその姿が街中で増え、私も、僕もと連鎖的に同じような姿、格好になって行く。それが流行なのだ。

つまり、有名ファッションデザイナーや美容師、有名人の考えで流れが決まると言っても過言ではない。テレビや映画に映る有名俳優やタレントが全員常に丸坊主だったら一般男性もそこら中、丸坊主かも知れない。それは、よく考えると人の真似であるが、それは何処の馬の骨ではない人の真似である。
その反面、例えば、ある女子高校で自由な髪型が許されるとして生徒たちはそれぞれの髪型をする場合、ある生徒は髪を刈り上げして更に頭の天辺に一本結びした奇抜な髪型をした生徒がいた場合、他の生徒達はその子に対して恐らく振り向いたり、凝視したりするだろう。しかし、その本人にしてみれば誰の真似をした訳でもなく自分自身の個性を表現した迄で、決して変わり者ではない。でも、それを見た他の生徒はその生徒の真似をする事はほぼない。
このようにメディアを通して連鎖的に流行する場合が主流になり、一般の個人的ファッションは少数派にとどまるのが現状と言える。それらを踏まえて考えると、誰の影響も受けず、服装や髪型を自分自身の個性で着こなす事は、もしかしたら、そうした人達は別の見方をすれば、ある意味では流行の最先端ではないかと思う。

90年代に女子高生の間で大ブームとなったルーズソックスという靴下がある。これはアメリカが登山用に使用されたのが切欠で、日本では当時の人気歌手が着用したのが火付け役となった。制服で街中を歩く女子高生は皆それを履いていた。それはいつしか時代と共に消え去ったが、また再びブームになりつつ有ると言う。これは中、高生の子供を持つ40代の母親の影響や、コスプレ感覚で着こなしているのが影響と思われている。しかし、これらも過去の真似である。
流行は繰り返えされたり、新ファッションブームも大変結構なことだけど、第三者の影響(メディアを含む)を受けない独自の個性を生かした人達のファッションは、十分に個性的ファッションデザイナーである。
私はメディアの影響、デザイナーや美容師、有名人のファッションを否定も肯定もしない、でも人の真似をする事のない個性派ファッションの人達を、第三者が誹謗中傷や偏見する人達がおられるとしたら、それはいつの日も一般個性派ファッションは流行の嚆矢とはならない。



2023年2月16日(ももやん) photo→花の写真素材屋 素材

自由

 1975年代は第二次ベビーブームの団塊ジュニアと呼ばれ、出生数が200万人を超えた時代で、それから出生数は右肩下がりになり、現在では80万人を下回る恐れが有ると言う。極端に人口が増えるのも問題だが、その反面で人口減少は将来の経済の全般に影響が出てくる。その結果、生産人口の高齢化増で労働力の低下と並行に、生から死を引いた生の数が将来マイナスが続く少子高齢化は、生産人口の減少で国内需要が大幅に減少して需要と供給のバランスが崩れ、福利厚生の歳費負担増や国際競争力の大幅な低下に陥る恐れがあるのだ。
それらを改善する為に、政府は人口問題いわゆる少子化対策を多種多様な政策を打ち出している。ここではその内容は触れないが大幅な改善効果は現在の所、良い数字は出ていない。それれらの対策は、お金と”ゆとり”、あるいは働き方改革等で解決するのだろうか。

その昔、女性は25才前後で結婚を目標にしていた。実際その年齢で大多数が既婚者になり、30才を過ぎると取り遅れたり、高齢出産と言う言葉もあり、30歳迄はという気持ちを抱いていたのを聞いた。しかし現在の女性は普通に何歳であろうと仕事や趣味、プライベートな時間等をこなしている。
ある女性に聞いてみた。女性曰く、彼氏も欲しいし結婚もしたい。また、彼氏は居ても結婚は考えていない。結婚してもそれぞれ自分の時間がほしい。更に、結婚年齢は多少意識するけどそれ程気にしない。と、多様な意見が聞かれる。それらを大まかに要約して、”お金と子育て負担”なのかと聞くと、どうやら違うらしい。昔はそうゆう時代かも知れないけど今は恋愛と結婚は別、価値観だという。昔の時代と今の考えが入り混じっているとの事。具体的に言えばお金も支援もそうだけど、だからと言って子供を産みたいとかは別で、何かに束縛されない自由が欲しいと言う。
それらの意見が男性も同じような考えだとしたら、それはある意味、男女未婚者の相乗効果により、右肩下がりの数字の結果の一部が多少入って居るかもしれない。

夫婦の間で子供が誕生すると小、中、高の教育費は勿論の事、大学卒業までは親の責任や負担が強いられる。特に乳児や幼児の子育ては容易ではない。その昔は男は外で仕事、お金を稼いでくれれば良いと、女は家で家事と育児を専念してくれれば良いと言われる時代があった。それらを今の人達から言えば男女共同参画に逆行していて女性に対する偏見とお叱りを受けるかも知れない。また、育児手当や教育無償化などの無い時代でも出生数は増えたのに何故?と聞くと、昔はその時代の流れ、今は保育施設の拡充や手当、無償化でも男女それぞれの価値観の違いや所得、そして自分の自由が欲しいと言う。
それを証明するように結婚イコール子供という昔の当たり前のシナリオが現代では通用しないとの事。結婚した夫婦それぞれが仕事や趣味、プライベートな時間を満喫して家に帰り、二人の時間を過ごす、そして子供は特に意識しないとの事。
これは全部が全部この夫婦のパターンではないが、そう言った事例がある限り、昔の出生数の数字は取り戻せないのだ。
国の政策や社会のせいではなく、長い年月が過行くに連れ、人の意識や価値観が変わりつつあるのだとしたら、少子化対策は別の方向で模索しなければ方向性は見出せない。それは、見えるものは解決できても見えないものを検討するのは容易ではない。

自由とはウィキメディアによると、他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っていることをいう。と書かれているけれど、その意味の理解と少子化対策をリンクして考えた場合、とても難しいかも知れない。


2023年2月22日(ももやん) photo→花の写真素材屋 素材

クリスマスローズ

 春から咲き始めるクリスマスローズ、クリスマスローズの名前は総称でヘレボルス、和名ではカンシャクヤク(寒芍薬)という。科名はキンポウゲ科、原産地は東ヨーロッパ・中国などに分布している。クリスマスローズの花は、外観で見えているのは萼(ガク)で、その内側が花びらである為、花持ちは長く感じる。また、キンポウゲ科には多くに有毒成分が含まれており、クリスマスローズも例外ではない。その毒性を利用した戦争があり、ギリシャのペロポネス半島コリントス湾に面したキラ地方で起こった第一次神聖戦争である。この戦争で、川の水にクリスマスローズの根をしみ込ませて相手方陣営や、そこに住む人達が川の水を飲み、多数の中毒者を発生させたと言われる。話は少し違うが、同じギリシャで犬と一緒に遊んでいた人が、うっかり隣国のブルガリア領に入ってしまい、これを見たブルガリアの国境兵がその人を狙撃して死亡させた。これが切欠で双方の国が戦争となった。いわゆる犬戦争である。
なんだか理解不能な話である。

話が大幅にずれたので、本題に戻ります。そのクリスマスローズの花は兎に角、下を向いている。背丈は20〜30センチ程度なので、ただ歩いて観るだけではあまり花は目立たない。花をしっかり観るには、花を手で起こしたりして観る方法と、目線より上にあれば、覗き込むようにして観ると良く花が観察できるのだ。しかし、花の写真を取る時は、説明した通り、撮影は容易ではない。片手で花を起こし、シャッターを押すと自分の指が写り絵にならない。なので、地べたに這いつくばってクローズアップして撮影するのだが、この方法も容易ではない。撮影するのに便利な機材があるかも知れないが、いずれにしても花なりに綺麗な花ほど、羞恥心があって下を向いているのだろうか?。
鉢植えでクリスマスローズを育てる場合、11月後半頃から12月に初旬頃にかけて、適当な間隔で茎を選定する。翌年の春ごろには、新芽が出て花を複数咲かせ、花色は白から紫、赤紫など色々あって観賞できる。また、クリスマスローズを含め、キンポウゲ科は色取り取り多彩な花種があり、観賞するには十分楽しませてくれるのだ。
写真は近くの公園で撮影された被写体で、先に記述した通り、這いつくばり撮影しました。


2023年2月26日(ももやん) photo→花の写真素材屋 素材

スマートフォン

 時代は40年以上前、携帯電話は、ショルダーバッグのように肩から下げて電話機を持ち歩いた。受話器も昔の黒電話のような形でバッテリーも重く、とても持ち歩く品物ではなかった。この電話機は主に会社所有の物が多く個人で所有するのは高価で手に入れる事は少なかった。その頃、個人ではポケットベルが主流で、例えば会社が外にいる社員に連絡を取りたい場合に、社内の固定電話から相手が持参しているポケットベル(片手で握れる大きさ)に音で知らせた。その音を確認して近くの公衆電話で会社に要件を聞いていたシステムである。のちに、そのポケットベルも要件を表示できるようになった。ただ、発信機能はない。その頃、パソコンと言えば今で言うインターネット(動画、写真、SNS、)といった機能はなく、パソコン通信というブラウン管に一文字づつ文字を表示したドット通信(文字のみ)で転送時間も気が遠くなるほどだった。また、パソコンを個人で使用するのは表計算ソフトのマルチプランやロータス123、文書作成・印刷は専用機種のワードプロセッサー(ワープロ)、パソコンでは一太郎、図形作成の花子などがあったが、メモリーの容量や書き込み媒体の制限で今の様に快適な物ではなかった。それからを顧みて、携帯電話もパソコンも年々技術開発が進み徐々に便利になって行った。
携帯電話については、ショルダーバッグ型からポケットベル、そして本格的に片手で持てるアンテナ引き出し型の電話が登場し、2インチぐらいのモノクロ液晶画面に文字表示ができた。そして、通信環境や速度の進化が徐々にバージョンアップされ、現在に至る。パソコンについては、オペレーティングシステム(OS)の進化やプロセッサー(CPU)、メモリー容量技術躍進で高機能化が現在に至っている。

そこで、本題であるスマートフォンについて考えてみた。CPU(演算処理)・GPU(画像処理)が大幅に躍進しても、それなりのデーターを記憶処理できなければ話にならない。そのメモリーだが、今やギガ・テラと言った大記憶容量で動画や画像・映像処理が容易になった。携帯電話の話ではないが、その昔は約1.4MB(メガバイト、1ギガの千分の一)の媒体(フロッピーディスク)はA4版サイズの下敷き型で、のちに5インチ、3.5インチと小型化され現在ではそれらの記憶媒体は、ほぼ消滅した。それに代替えするのが現在のUSB(ユニバーサル・シリアル・バス)小指サイズ程の大きさのバス規格である機器端末である。
そのようにスマートフォンも半導体製造技術のナノ処理の躍進によりメモリーの大幅な縮小・大容量化・軽量化がなされ、その結果、並行にあらゆる端末も軽量化・小型化された。一時、携帯は小型化思考であったが、近年は何故か徐々に液晶画面が大型化されている。そして機種も年々バージョンアップされ機能強化や改善などされている。

そのバージョンアップを考察すると、電話で話す、メールを送る・読む、情報を確認するなど、基本的な機能はその昔とさほど変わらない。つまり、携帯電話としての最低限の機能は出し尽くしている訳で、それで十分と個人的に思うが、だがしかし毎回メーカーの新機種の発表がある。それは映像・カメラの強化だ。この機能も裏で支えているメモリーが関連している訳で、ギガ、テラの容量を十分発揮している。そのお陰で携帯のカメラレンズは1個、2個、3個と増え続け最後には携帯背面にレンズだらけになる恐れがある。それは一眼レフカメラの特製である望遠・広角・接写・標準など目的にあったレンズを持ち歩くのと同じで、今や一眼レフカメラは携帯に追い越されてしまうのではないかと思う。
その携帯電話は基本機能は劇的な変化は無いものの、映像の進化は発表ごとにバージョンアップされていく。つまり、通信環境は別としてカメラを軸に高機能化が改善されていき、大前提である会話機能がひっそりと陰に埋もれている。この事から結論としてスマートフォンは、カメラ付きSNSゲーム機と名付け、略してカメラ、メール、ゲームの頭文字でカメゲと勝手に命名した。

このカメゲは主に若い世代向けで、50代後半から60、70才代は特に機能をこなせない可能性が考えられる。料金にしても携帯電話の使用料は主にパケット量(通信量に課金)で、会話とSMS(ショートメール)だけなら月500円(通話料は別)程度で十分な気がする。それと並行に規格が古いデーター通信は消えて行き、高規格になるほど料金や機種も高くなる傾向だ。勿論、高齢者向けに操作性や必要最小限の機能を搭載した機種もあるけれど、パケット料金は最小限でも付き物となっている傾向がある。それは開発の基本である情報の多様化、映像のリアリティー化、マルチメディア化であり、各企業はパケット料金を見据えた情報提供に力を注いでいる。

携帯端末は、メモリー・保存容量の大容量化で、画像の蓄積やデーターの高速化が容易になり、通信業界に於いて、そこを軸に携帯電話(スマートフォン)の戦略開発であると考えられる。また、携帯電話の価格に付いては、電話本来の機能以外に大幅にコストを掛けた結果である事は間違いない。いずれにしても携帯端末は画像や映像、SNSが主流になり、本来、相手と話す事は少数派になっていく気がしてならない。また、巷の話では、自分の携帯番号を知らない若い世代がおられると言う事は、その理由が理解できる。
総括として、これまでの記事の内容は、携帯の歴史と、主にメモリーの進化により各デバイス(機器)の高性能化と映像の飛躍化を記したけれど、携帯”電話”はもはや”電話”ではなくカメゲであり、”電話”はオマケ付きである事で締め括りたい。


2023年3月03日(ももやん)

3.8qで世界一周

 ユーラシア大陸とアメリカ大陸に挟まれていている東シベリアのチュクチ半島とアラスカのスワード半島との間にあるベーリング海峡は、ユーラシア大陸側ロシア領、アメリカ大陸側は文字どうりアメリカ領がある。この海峡は両国の国境線は基より海峡の中央に日付変更線が設けられている。日付変更線は地球(球体)を24時間を1日とした場合、どこかで日付を変更しなければ矛盾が生じる為、南北の経度180度地点の海上に線で結び、その線を境に日付の変更を決めている。ベーリング海峡の日付変更線を挟んで、ロシア領側のラトマノフ島とアメリカ合衆国領側のリトルダイオミード島があり、両国の島と島の距離は最短距離で3.8qしかない。居住する住民はリトルダイオミード島側で100人程度(軍関係者が多い)とされている。冬季に於いては流氷や結氷で島どうしが繋がる事がある。元々はそれらの島々とアメリカ領土のアラスカ州を含めロシア帝国の領土であったが、150年程前にロシア帝国の資金難を理由に破格の金額でアメリカに売却し、またそれと同時に日付変更線も変更された。アメリカの飛び地アラスカ州はその理由によるものだ。余談ではあるが、領土の国境線に直線が多い国は、領土の取り合いの結果を示す歴史がある事が多い。

その様な歴史の流で、この両島はわずか3.8qしか離れていないけれど、両島の時差は20(夏季)〜21時間離れている。勿論、日付変更線によるものであり、冬季には歩いて30〜40分程で相手国の島に渡れ、尚且つ途中で日付が前後する現実が存在する。実際には国境がある為、その様な行為は禁止されているけれど、徒歩でタイムスリップできる距離であることは魅力的だ。それは時間差の感覚体験だけど、20時間以上の時差のある国へわずか徒歩で30分程度で世界一周した気分になれる。そのためか、島の別名は”昨日の島”、”明日の島”と皮肉な異名をもっている。
これらの島々は異国情緒あふれる異次元感覚のロマンがあるけれど、歴史的に見た場合、西側諸国と東側諸国の境界であり、冷戦時代のこの地は氷のカーテンと呼ばれ、超大国どうしが、わずか数キロしか離れていない緊迫した国境線でもあった。また、ロシア帝国時代はアラスカは売ったけれど、近年、もう一度元の状態に取り戻そうと考えているとも伝えられている。

そんな国際的な事情とは裏腹に、上記の理由で観光的な視点から観れば、とても興味あふれる場所である。また、ベーリング海峡を海底トンネルで結ぶ構想で、ユーラシア大陸とアメリカ大陸を鉄道または道路で繋いで、世界一周を陸路で観光や物流輸送ができる計画もある。でも今の情勢では完全に頓挫しそうだけど、せめて北極海を背にして、リトルダイオミード諸島で徒歩による時差体験を楽しめる事ができれば、この上、感極まるはずだ。日付変更線を超える体験は主に飛行機または船でしか味わえないけれど、ここでは冬季結氷等で一日何度でも昨日と明日を経験できる醍醐味がある。

観光はどの国も力を入れているはずだ。国境を超えて異国の文化・地理・遺跡など多種多様に観たり体験や学んだりして、私たちの知らない世界を発見できる。それらを含め、”冬季ベーリング海峡リトルダイオミード諸島、世界一周時差の旅”と称して、勝手に締め括りたいと思います。


2023年4月04日(ももやん)

上京

 高度経済成長期の1960年代後半から70年代をピークに、地方から大都市圏に集団で就職を求めた人達がいた。いわゆる集団就職が盛んに行われた時期があった。これは主に義務教育を終えた若者が大都市圏の企業に集団就職するもので、東北地方や九州地方などで盛んに行われていた。その理由は主に地方の所得では高等教育を学ぶ余裕がないため、中卒として大都市圏の企業に就職して自立させる事を目的とした事である。それは当時の国鉄(JR)上野駅に東北方面から幼い顔をした学生服姿の中学生達が集団で列車から降りてくる姿は、夢を抱いた大都会への希望の一歩であった。その光景は今の時代では考えられない事である。
地方から大都市(首都、東京)に向う事を上京という言葉がある。都に上るという事で上京であるが、その首都東京は太平洋の小笠原諸島から山間部の奥多摩まで該当する訳で、地方から小笠原諸島や奥多摩に上京すると言えば違和感を抱く。では上京の範囲はと言うと、東京23区で落ち着く事になる。
ちなみに、その昔は京都に都があり京都に向かう事を上洛とし、今の東京へは江戸に行く(諸説あり)と表現した。また、天皇は京都から江戸に移る理由として江戸の方が経済的に栄えていた為であり、それを踏まえ名称を江戸から東京へと変えた経緯がある。その東京を起点にして西や東に行くのにすべて下ることになり、下りは地方に向い、上りは大都市に向う構図ができた。しかし一見理に適っているようだけど、首都を起点に下った先に首都より大きい大都市がないのは不思議である。

話を戻して、上京とは東京(23区)に行くと考えた場合、隣接する神奈川・埼玉・千葉から東京に向う事も上京である。もっと極論から言うと埼玉県和光市から練馬区、千葉県浦安市から江戸川区、神奈川県川崎市から大田区に行くのも上京である。その双方の距離は数メートルから数十メートルで目と鼻の先である。それら”地方圏”に住んで居る人が23区に入るのに上京とは、ほぼ誰も言わない。それを考えると東京23区に向う地方からの通勤者は毎日上京している事になる。そうすると、地方から23区に行くまでの”上京”の判断の線引き基準は、距離なのか道府県なのか非常に難しい。
仮に埼玉県の人は東京に行く、隣接の群馬県の人は上京すると線引きした場合は、言葉の綾のバトルになる恐れがある。
上京という言葉はイメージ的に東京を起点にして遠くの地方から東京に来るというのが一般的だとしたら、その遠くとは何処から遠くなのか疑問が出てくる。いずれにしろ、意見相違にならない為には結論として上京(地方はどこから)は線引きを引かない事で筆者は勝手に考えた。

その様な事を考えると上京の意味はもしかしたら矛盾と違和感が生じる言葉かも知れない。敢えて上京という言葉を使わないとしたら、○○県・府・道・東京に行くと言う方が自然で違和感がない。また、余談だが地方に遊びに来た首都圏(神奈川・埼玉・千葉)の人が東京から来たと言う人は、恐らく都会と言うポリシーを抱いているかも知れない。
春の季節は全国的に地方から大都市、大都市から地方へと活発な人の流れになる。その人達は街への移動や異動であり、上京という言葉はある意味に於いて時代遅れの言葉ではないかと締め括りたい。
花の写真素材屋 Mobile site TOP 前のページ 次のページ 記事は著作権で保護されています